グイノ神父の説教

 

2023年

A年

年間第23主日から

王であるキリストまで


   

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王であるキリスト




           年間第23主日  A 年   2023910日  グイノ・ジェラール神父

                 ゼキエル33,7-9     ロ-マ13,8-10    マタイ18,15-20

 今日の典礼は私たちに兄弟の悪い所を直すようにと促します。預言者エゼキエルどうようにキリスト者は危険を警告する県張りの人です。聖パウロは私たちが、隣人を自分自身のように愛さなければならないことを思いおこさせます。最後に、福音は、私たちの間に現れる軋轢と不和を起こす問題があるにもかかわらず、一緒にこの共同体のなかで生きる方法を教えています。

シトー会とベネディクト会の修道士は定期的に欠点,悪い習慣などを正常な状態に直すために兄弟としての矯正を行っています。しかし、私たちの中に、自分の悪い態度によって共同体に害を及ぼす兄弟に警告する勇気のある人がいるでしょうか。確かにその人には注意出来ないです。その人に注意をしたら、逆にこちらがやられてしまうからです。私たちの目から丸太を取り除くのは難しいのに、どうして兄弟たちの目にあるおがくずを平気で取り除くことができるでしょうか。私たちは日光東照宮の三猿の真似をして、口がきけなくなったり、耳が聞こえなくなったり、目が見えなくなったりします。しかし神は、かつてカインに忠告したように、私たちが皆兄弟たちに対する責任のある人だと思い出させます。実際、私たち一人ひとりは共同体全体の霊的な成長に責任を持っています。

 これは、教皇フランシスコがキリスト者の連帯感(solidarity)について語るときによく繰り返すことです。教皇フランシスコは私たちが連帯によって福音の喜びを生きるようよく勧めています。イエス・キリストと共に生きるには、信仰を共有する人々を見守ることが必要です。兄弟に仕えることは、兄弟のために何かをすることではなく、兄弟と一緒に何かを行い、お互いに刺激し合うことを一緒に学ぶことです。これを実現できた人は、常に福音の喜びに満たされます。この喜びは彼らの連帯感の行動を完全な愛徳に変えてします。

 兄弟の悪い態度を直すことは、まさに、慎重で敬意をった愛の行為でなければなりません。兄弟が自分自身を正すのを助けたいと思う人は誰でも、自分が優れていることを示すのではなく、自分の中に教会全体の人々の心配と懸念を心に抱いていることを示さなければなりません。人を正そうとするキリスト者には、兄弟に強い愛を示す使命があります。「愛は隣人に悪を行いません。」と聖パウロは言います。キリスト者は、兄弟を辱めたり、脅したりすることで兄弟を正すのではなく、自分自身を謙虚にして、優しさと敬意を示すことによって兄弟を正し、救うのです。

イエスは何よりも対話を確立する子を主張されます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と。この責任を追う人は決して誰でも一人ではありません。キリストは共同体の利益と一致のために行動するために彼に同行します。キリスト者が兄弟に救いの手を出そうとするとき、先ずキリストと一致し、同時に他のすべてのキリスト者が自分たちの共同体との一致の行いを祈りで支えるように願います。確かに、共同体の全ての人がキリストと一致するとき、兄弟への矯正が平和と一致の実を結びます。

罪は共同体を傷つけ、分裂させますが、祈りは共同体を強めます。たとえ争いの真っ只中にいても、二人か三人の兄弟が「イエスの名のもとに集まっている」なら、彼らの間に「イエスがおられます」皆に平和と一致を与えるためです。和解の努力がうまくいかなくても絶望すべきではなく、むしろ祈りの効果を信じなければなりません。共同体の祈りは一致を生み出し、私たちの間にキリストの現存を引き寄せます。だからこそ、私たちは毎週日曜日にここに集まる理由があり、イエスが、私たちを神と互いとを和解させるのです。

ですから信頼をもってアトスの聖シルアン(Silouane d Athos)の願いをイエスに聞かせましょう。「主よ、私たちは皆罪人であり、あなたの恵みを受ける価値がありません。しかし、あなたの慈しみと十字架によって私たちを救ってください」。アーメン。

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            年間第24主日 A 年   2023917日  グイノ・ジェラール神父

                 シラ書27,30-28,7    ローマ14,7-9     マタイ18,21-35

 イエスがペトロの質問に答えたあの日以来、イエスに従う者は皆、際限なく赦さなければなりません。これが福音の新しい法則です。私は赦さなければなりません。もし赦さなければ私は罪びとになってしまいます。この法律は避けられません。たとえ私がすでに人を千回赦したとしても、一度でもそれを拒否すれば私は罪びとです。兄弟に傷ついた者も、兄弟を怒らせた者も、彼を決して許さない者も、どちらも神の目には罪びとです。

 赦しがなければ、私たちの中に憤りや怒り、そして多くの場合、すぐに復讐の欲求が生じます。イエスの2世紀前の賢者ベン・シラ(シラ書)はこの危険について私たちに警告しました。「憤りと怒り、これはひどく忌まわしい。罪びとにはこの両方がつきまとう。隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」と。ベン・シラはイエスがたとえ話で説明した内容を言いました。私たちが神に罪の赦しを求めるなら、そのお返しとして、兄弟たちに対しても同じことをしなければなりません、と。

 「何回、彼を赦せばいいでしょうか」ペトロは、イエスが何を考えているかを推測して、七回赦しを与えたらよいと言いました。なぜならイエスの時代の律法学者たちは3まで赦すことを提案していましたから。ところが、イエスはハッキリと赦しには限界がないと断言しました。イエスにとって、赦しと和解は礼拝や捧げ物よりも重要です。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい』(参照:マタイ5,23)。赦しによって、私たちは神の愛と慈悲の世界に入ることができます。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい・・・赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される・・・あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」(参照:ルカ6, 36-38)と。

 イエスは私たちに、神の裁きを受け、神と和解しなければならないことがたくさんあることを思い起させます。私たちは、全員がみんな一緒ではありませんので、私たち一人ひとりに特有の負い目を認識するために、一人ずつ神の前に立たなければなりません。これは告白の秘跡と呼ばれ、また和解と赦しの秘跡です。神は、ご自分の憐れみとご自分が人々に与えようとする救いを私たちが強く望んでいることを見て、喜んでおられます。しかし、神はしばしば失望します。赦されたその人は、再び同じ過ちを繰り返してしまい、自分の過ちを直ぐに忘れてしまいます。そして、自分に危害を加えた人の過ちを考慮することにします。すると神は怒ります。「お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と。

この神の非難を避けるための努力は、私たちが「主の祈り」の願いを実践することです。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」と。アーメン。

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            年間第25主日   A 年   2023924日   グイノ・ジェラール神父

                  イサヤ 55,6-9         フィリピ1,20-2427  マタイ20,1-16

  「神は私たちのように考えていない」この事実をイザヤは私たちに知らせました。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」(参照:イザヤ5,8)と。イエスご自身は、しばしばたとえ話で話され、私たちのように自分自身を表現しません。神とその王国について語るとき、イエスはイメージを使われますので、時には躓きになり、ショックを与える状況になることもあります。今日のたとえ話はその典型的な例です。一生懸命に働いてきた人たちに対する神の正義は、不公平であり、また失礼で軽蔑的な態度として認識されます。

 「天地創造の時から隠されていたことを」(マタイ13,35参照)告げるためにイエスは、私たちの日常生活の一部であるイメージをよく使っています。 私たちはこのたとえ話の出来事を映像としては理解していますが、イエスの教えは部分的に理解できないままです。

 最初に雇われた人たちと結んだ契約にもかかわらず、ぶどう畑の主人の行為はスキャンダル的であり、全く不公平であるように私たちには思われます。実は、このぶどう畑の主人は人間的な振る舞いではなく、神のような振る舞いをしています。その大切な部分こそ、私たちが受け入れるのがとても難しいところです。そうであれば、神は最も偉大な聖人を扱うのと同じように、最も頑なな罪人を扱うのでしょうか? 神はご自分の善良さと慈しみのゆえに、呪われていると信じられている人々をも御国に迎え入れるでしょうか。

 この私たちを当惑させるたとえ話を通して、イエスは神を一人の裁判官としてではなく、すべての人に平等の愛を持って愛する方として私たちに示します。神はご褒美を与えません。神は罰せず、裁かず、無限の愛で愛しています。だからこそ、理解できない人、あるいはショックを受けている人たちに対して、イエスはぶどう園の主人にこう言わせているのです。「わたしの気前のよさをねたむのか」と。そうです、神が示す愛は、時として私たち一人ひとりにとって試練となることがあります。神ご自身が私たちを愛されたように私たちも互いに愛することを要求します、だがそれは簡単なことではありません。

 
イエスのたとえ話は、神が常に私たちを見つけようとしてずっといていることを思い出させます。イエスご自身も、失われた人々を捜し求めるために父なる神から遣わされた方です。実に、イエスは人間を迎えに来られた神です。 神は何もせずに待っておられる方ではなく、むしろ私たちのところに来てくださる方です。それは 私たちをご自分の家に招待するためです。

 神は無償の愛を示す神でもあります。人が受けるべき給料持っている功績、具体的な疲れる仕事は 決して神が無償で愛するのを妨げるものではありません。 この事実についてイエスの言葉を思い出しましょう。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(参照:ルカ7, 10)と。

 賞賛も励ましの言葉もなく、メダルも賞もありません。神にとって、「すべては恵み」であり、すべては無償です。神の王国に招待されることは、まさに恵みであり、無償な愛の賜物であり、またとない機会です。私たちは神の愛に支えられたままに天の王国に入ります。 そして、「神の業のために働くことは、神が遣わされた方(イエス)を信じることです」(参照:ヨハネ6,29)。したがって、神の業のために働くとは無償の愛の賜物を受け取ることです。この賜物は神ご自身です。神は私たち一人ひとりにご自身を完全に与えてくださいます。

 聖書はあらゆるページで次の事を叫びます。「私たちは天地創造の前から永遠の愛で愛されており、私たちはこの事実に対して何の関係もない」と。「耳ある者は、“霊”が告げることを聞くがよい」(参照:黙示録3,6)。 アーメン。

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             年間第26主日  A  2023101日    グイノ・ジェラール神父

                   エゼキエル18,25-28  フィリピ2,1-11   マタイ21,28-32

 今日の二人の息子のたとえ話は、私たちが自分自身を振り返って判断するように誘っています。現に私たちの意志と神の意志が外見的に一致することはよくあるからです。実際は利益を見出すことだけが私たちを導いてます。多くの場合、私たちは神に対して「はい」と言いますが、その「はい」はうわべだけで、表面的なものにとどまります。確かな根拠のない「はい」という言葉は、深く永続する回心の成果ではありません。それは私たちの心の奥底に触れるものではなく、まして私たちの生き方を変えるものでもありません。

 イエスのこのたとえ話は、本当の危険を示しています。それは、私たちが生きている間、真のキリスト者にならずに、ずっと、従順に典礼の行事や教会の活動に参加するという危険です。私たちは常に神に「はい」と答えますが、急ぎ過ぎないようにしましょう。神の言葉を歓迎するか拒否するかが私たちの心の中で交差し、識別力が私たちに欠けていることがよくあります。そのような時には、詩篇のアドバイスに従うのは私たちにとっては大切な勧めです。「今日、神の声を聞くなら、心を閉じてはならない」(典礼讃美歌、参照:答唱詩編95,7-8)と。

 たとえ話の長男は即答で「ノー」と言いました。彼は父親に「私はあなたの意志には従いたくない」と答えたのです。この父親はこの息子が嘘をついていないことを知っています。しかし、長男はおそらく考えを変えて、自分が頼んだことをするだろうということも父親は解っています。しかし、次男は父親に嘘をついています。彼は父親に従わないだけではなく、後悔も悔い改めの素振りも全く見せませんでした。預言者エゼキエルも聖パウロもイエスも「人の運命について、事前に何も決まっていない」と教えています。 義人が罪人となってしまうこともあれば、罪人が回心して救いを得る場合もあります。

 神もイエスも、人を誰であろうと自分の過去に閉じ込めることは決してしません。神にとっては、決定的な善人も決定的な悪人もいません。神は人間が前進したり、後退したりして人生の道を歩むことしかご覧になりません。しかしながら、神はすべての人が新しくなることを望んでいます。そのために、神は私たちに反応する時間を与えます。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、神はあなたがたのために忍耐しておられるのです」(参照:2ペトロ3,9)。 私たち一人ひとりにはそれぞれの歴史があるので、神は私たち一人ひとりときた個人的な関係を繋ぎたいと望んでいます。

 人間は常に他の人を参考にして生きています。ある人とは付き合える、しかし他のある人とはそうではありません。誰もが他人に自分の良いイメージを与えたいと思っています。しかし、キリスト者は神を参考にして、真似る使命を持っています。なぜなら、神が人間をご自身に似せて創造されたのですから。神の眼差しを受け入れることによって、私たちは再び自分自身になります。この眼差しこそが私たちの隠された本当のアイデンティティであり、私たちに対する神の無限の愛を明らかに示すものだからです。

 以前に教皇ヨハネ・パウロ二世が打ち明けました。「私は厳しい全体主義政権の下で(ナチズムと共産党)、深い闇の時代を生きました。私はこれまで十分に恐ろしいことを経験してきたので、私たちの心の中に永遠に湧く希望を完全に押し殺すほど大きな困難や恐怖はないということを揺るぎなく確信しています」と。また、ヨハネ・パウロ二世はこのようにも言いました「私たちは弱さや失敗でき上がった者ではありません。むしろ、私たちに対する父の愛と、御子の似姿となる真の能力創造された者なのです」と。この言葉が、私たちが常に神に「はい」と言う助けになり、また、喜びをもって神の意志を実現するために役立ちますように。 アーメン。

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             年間第27主日 A 年  2023108日  グイノ・ジェラール神父

                    イザヤ5,1-7  フィリピ4,6-9   マタイ21,33-43

 聖書では、ブドウ畑は幸福、繁栄、平和の象徴です。人々は静けさと調和を夢見るとき、ブドウ畑について次のように話します。「国境はどこを見回しても平和であった。ユダとイスラエルの人々は、ダンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下で安らかに暮らした(参照:列王記上 5,4-5)と。

また、「人々は剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。人はそれぞれ自分のぶどうの木の下いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もない」(参照:ミカ4, 3-4)と。

 イエスは「平和の君」(参照:イザヤ書9,5)だからこそ、彼はご自身をぶどうの木にたとえられます。イエスは確かに「ぶどうの木であり、私たちはその枝です」(参照:ヨハネ15,5)。そうすることで私たちは平和を実現する者となるはずです。「私はあなたに私の平和を残します、私はあなたに私の平和を与えます(参照:ヨハネ 14,27)とイエスは私たちに約束してくださいました。

 そういう訳で、聖パウロは今日、フィリピのキリスト者を優れた実を結ぶ、ぶどう畑として紹介します。フィリピの信者たちは、聖パウロから学び、教えを受け、見聞きしたことを実践したからです。そのために聖パウロはフィリピの信者たちに「心と思いを、キリスト・イエスにあって守り、人の想像をはるかに超えている神の平和」(参照:フィリピ4, 7)を約束します。

 しかし、預言者イザヤにとって、イスラエルというぶどう畑は平和のしるしでは決してありません。このぶどう畑は反逆と神への軽蔑のしるしとなったからです。この行動は必然的に彼の怒りを招くことになります。同様に、イエスのたとえ話でも、ぶどう畑であるイスラエルの民を悪と窃盗が織りなす場所、死がその力をばす場所としてしまいます。イスラエルの民が過去に厳しく罰せられたように、イエスの時代のイスラエルの民の指導者たちも必ず同じ罰を受けるでしょう。

 私たちはミサ祭儀に与るたびに、ぶどうの木の実であり、人間の働きの象徴であるぶどう酒を神に捧げます。このぶどう酒は全人類に神の救いをもたらす「救いのしるし」です。キリストの血となるこのぶどう酒は、私たちを神と和解させ、神の平和をもたらすためにイエスが死んだことを私たちに思い起させます。私たちは毎週日曜日、「主の祈り」を祈るとき、完全な一致をもたらすこの平和を求め、また私たちがお互いに分かち合おうとします。

 イエスの体を食べ、その血を飲むことによって、イエスに結ばれて、私たちはこんにち「主のぶどう畑」なのです。ですから、優れた農夫として、神が私たちの手入れをすることに承諾しましょう。それは、神が私たちの内に実を結ばないものを取り除かれ、切り落とし、そして美しいぶどうの実が実る可能性のある枝の手入れをするためです(参照:ヨハネ15,1-3)

 美しい実を結ぶことによって、「私たちは神に栄光を与え、イエスの弟子であることを証明しています」(参照:ヨハネ15,8)。アーメン。

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       年間第28主日   A 年  20231015日    グイノ・ジェラール神父

            イザヤ 25,6-9      フィリピ4,12-14,19-20    マタイ22,1-14

 神は私たちを御子の結婚の祝宴に招待しています。神はあらゆる手段を使って、「脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒」(参照:イザヤ25, 6)」の宴席に座らせようとしていますが、おそらく食欲のない人類を招待し続けています。神は招待状を繰り返し出していますが、人類は常に断るための良い理由を見つけています。

 しかし神は忍耐強く、常に希望を抱いています。神は自身の畑に豊富に種をまきました。鳥や石、茨が邪魔していたにもかかわらず、神は豊かな収穫を得ました。ですから、諦めずに、神は人類のあらゆる道、交差点、行き止まりの場所にでさえ使者たちを送り続けます。神は宴の部屋を招待客で満たすことを諦めません。そのため、神は善人も悪人も区別せずに自分のテーブルに迎えます。神が招待するとき、その招待は神の心の広さを持っています。神はすべての人々に語りかけます。誰にとっても、一人ひとりにとって、よい場所と豊かな幸福を整えています。

残念なことにたとえ話の結末は私たちにとって衝撃的かもしれません。悪人も善人も、すべての人が招待されること、それだけでも受け入れるのは簡単ではありません。しかし、ある招待客が全員の前で拒絶され、結婚の衣服を身につけていないという理由で非難されることさらに、彼が犯罪者のように手とを縛られて放り出されるということは、私たちにはまったく不当で誇張されているように思えます。

 聖アウグスティヌスは、この婚礼の衣が実際には何なのかを知ろうとしましたが、無駄でした。彼は一瞬、それは愛だと思いました。聖パウロはコリント人への手紙の中でこのことを語っています。「もし愛がなければ、私は無に等しいのです」(参照:1コリント13,3)と。他の宗教の専門家が 結婚の衣は感謝を表すことだと考えていました。神から授かった贈り物に感謝の気持ちがなく、神へのある程度の飢えと渇きも持っていない人は、心が渇いたままです。

 感謝することは、単に「ありがとう」と言うこと以上です。それは受けた恵みと一致することであり、私たちが神の愛に包まれるためです。私たちは皆、小羊であるキリストの宴会に招待されていますが、その権利は私たち自身には何もありません。ですが、洗礼によって、私たちはキリストの栄光を身に着け、彼と一つになりました。私たちはイエスの体であり、イエスと結ばれて彼の内に生き、キリストによって、キリストと共に生きることは、確かに祝いの衣を着ることです。 だからこそ私たちは絶えず神に感謝しなければなりません。

神は私たちに何も求めず、すべてを与えてくださいます。 私たちはそんなにとても満たされているので、感謝しなければなりません。追い出されたたとえ話の人は謝罪の言葉もなく、黙ったままでした。そこで王は彼を元の場所であった寒くて暗い世界、自由がなくすべてが麻痺している喜びのない世界に送り返しました。

聖パウロは手紙の中で、自分が困っていたときに助けてくれたフィリピの教会の人々に感謝の意を表しています。聖パウロは、彼らの助けで自分が生かされたことを非常に簡潔に彼らに語ります。聖パウロの心の底から自然に湧き出たこの告白と感謝の言葉が、このたとえ話で語られている結婚式の衣です。

ですから、永遠の愛で私たちを愛してくださる神に感謝の気持ちでいっぱいになりましょう。衣としてキリストを着て、キリストの命に生き、喜び、礼拝、賛美、感謝の王国である神の国にキリストと共に入っていきましょう。 アーメン。

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         年間第29主日 A 年  20231022日   グイノ・ジェラール神父

           イザヤ 45,1-6      1テサロニケ 1,1-5      マタイ 22,15-21

 今日の典礼は、大切なことを思い出すように私たちに促します。私たちを愛し、赦し、守り、私たちをご自身のもとに引き寄せてくださる神の手の中にすべてはあります。神はすべての根源であり、私たちの義務はそれを絶えず思い起こして、感謝することです。

聖パウロは、自分が設立したキリスト教共同体を愛し、そのために神に感謝し、キリスト者たちの信仰を励ましながら、自分の祈りと愛情を彼らに保証することをよく証ししました。このようにして、私たちも洗礼を受けたキリスト教共同体の仲間たちと私たちを信仰のうちに育てた人々を思い出し、それらを祈りに込めて神に感謝するよう聖パウロは教えています。「神が私にしてくださったすべての善に対して、どうやって神に答えようか」と、詩篇が思い巡らすように勧めています。(参照:詩篇 116,12)。
 

 神すべての根源であることを皇帝キュロスに話しかけるときにこの大切な事実を思い出します。 神はキュロスの「右の手を取りました」。神は彼をあらゆる国から恐れられる強力な統治者とし、また追放されたご自分の民、イスラエルの民の救世主としました。キュロスは国々を支配する力を神ご自身から得ました。「私はあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは(わたしを)知らなかった」と神は彼に教えました。受難の最中にイエスは、自分の力を誇るポンシオ・ピラトにこの真理を思い出させます。「神から与えられていなければ、あなたは、わたしに対して何の権限もないはずだ」(参照:ヨハネ19, 11)とピラトに答えました。私たちも、自分の命が永遠の昔から神の手の中にあることを覚えておく必要があると思います。

 イエスを罠にかけるために、ファリサイ派の人々は、自分の偽善をはっきりと見せました。彼らはイエスを倒そうと願って彼をほめたたえ、賞賛するのです。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」と言って、イエスをほめたたえます。皇帝に税金を納める必要性についての彼らの質問に答えることによって、イエスはファリサイ派の人々が自分たちの良心に従って正しく行動するように願います。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか・・・神のものは神に返しなさい」と。

 税金の問題は信仰とは関係ないと私たちは考えているかもしれません。しかし、イエスにとってはすべてが神と関係があります。昔の皇帝キュロスと同様にローマ皇帝は神から権力を授けられたので、彼に服従する者は皆税金を支払わなければなりません。それと同じ様に、信者は神に賛美と感謝を捧げ、神の律法に従って行動しなければなりません。実際、イエスは私たち一人ひとりに識別の力を働かせるように求めています。教会もまた、キリスト教的な生活を社会的な生活から完全に切り離すことができないことを私たちに思い出させます。実はイエスにおける信仰が、社会全体に役立つことを私たちは忘れがちではないでしょうか。

今日の朗読もイエスも私たちに「真理に基づいて神の道」を教えています。ですから、私たちが神から受け取ったすべての贈り物を思い出し、心から神に感謝しましょう。また、私たちの信仰と社会方の要求に従って行動するために、識別の力の賜物を神に切に求めましょう。アーメン。

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          年間第30主日  A   20231029日    グイノ・ジェラール神父

            出エジプト 22,20-26        1 テサロニケ 1,5-10     マタイ 22,34-40

 イエスが宣言した神の掟と人間たちの法律が要求する戒めとの間に違いはあるのでしょうか。世界中のあらゆる法律が他者を尊敬することを要求していますが、その中に他者を愛することを勧めている法律は全くありません。イエスだけが愛を律法の中心に据えています。イエスにとって、愛は律法の一部であり、律法に意味と方向性を与えています。

 イエスはまた新しいものをもたらします。イエスは、神と隣人、神への愛と隣人への愛を同じレベルに置くのです。最後の審判のたとえ話の中で、イエスは困っている人々とご自身を同一視されています。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(参照:マタイ 2540)と。

 イエスにとって、神への愛と隣人への愛は二つの違った愛ではありません。愛は一つの愛しかありません。私たちが本当に神を愛しているかどうかを確認する唯一の方法は、他人に対して私たちがどのような愛を捧げているかを見ることで分かります。イエスは決して、神か人間かのどちらかを選ぶようにとは言われません。神への愛と隣人への愛の間に競争は全くありません。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(参照:1ヨハネ4, 20)と聖ヨハネは思い起こさせます。

 そういう訳で、イエスは自分に罠をかけるためにやって来たファリサイ派の人々を自分たちの良心にもどすのです。律法を利用して誰かを罠にかける者は、自分自身を律法の外に置く者になり、律法を破っている者であるとイエスは彼らに説明されました。人間に与えられるあらゆる害は、神に与えられる害です。 聖書にはこのことが何度も示されています。イスラエルの民、あるいはモーセの兄弟姉妹が彼を批判するときに、神はすぐに激怒して厳しい罰を下します(参照: 民数記 11,33-3412,1-1514,10-23 20,8-6)

 従って、二つの愛の掟がまさに唯一の一つの掟であることは明らかです。神への愛と隣人への愛は切っても切り離せない関係にあります。簡単に私たちの信仰を要約するなら、「あなたは愛するべき」です。このようにイエスは神への愛を人間化し、隣人への愛を神聖なものとされました。私たちにとって、人間への愛と人間に関わることがもっと分かりやすいのであれば、私たちの生活の中で神に関わることを発見して、もっとよく知るように努めましょう。 一方、私たちにとっての愛と神に関することがより自発的なものであれば、他の人への奉仕にしっかりと取り組むように気を配りましょう。イエスにとって神と人間は同じ愛の対象です。

 私たちは皆、完全に愛する方法が解らないことを知っています。心を尽くし、魂を尽くし、精神を尽くして愛することは可能でしょうか。隣人を自分自身のように愛することは可能でしょうか。 たとえ私たちが「不可能」だと思っていたとしても、神とイエスは「はい、可能です」とはっきり答えます。ですから、真剣に愛するために私たちの拙い努力を謙虚に認め、聖ペトロの言葉を自分のものとしましょう。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(参照:ヨハネ21, 17)と。アーメン。

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       年間第31主日  A年   2023115日   グイノ・ジェラール神父

         マラキ1,14-21-28-10   1テサロニケ 2,7-913  マタイ23,1-12

 預言者マラキは、職務を果たさない祭司たちや、自分たちの利益のために律法を解釈する祭司たちに対する神の思いを伝えようと努力しています。父親が自分の悪い子供を叱るように神はこの祭司たちを厳しく罰する意志を表明し、またご自分の不満を打ちあけます。そのため、預言者マラキは、イスラエルの人々に、神を軽んじる、神の言葉を自分たちの利益に合わせる悪い祭司たちを模範にしないように勧めています。また預言者マラキはイスラエルの民が神を尊敬し、愛する父として認識するように招いています。

 使徒パウロは、テサロニケの人々に対して非常に優しく接し、彼らのことを自分の子どもたちを見守る母親のように大切にします。聖パウロは神の言葉が彼らによって良く理解され、実現されていることを見て喜び、それを神に感謝します。

イエスは、預言者マラキのように、神の言葉を利用して偽善的に振る舞う者に注意するように求めます。また、イエスは、聖パウロのように、神の言葉を忠実に実現し、神を愛する父として認識するよう招いています。

今日の朗読は、私たちに自分の言葉に一致した行動をとるよう促しています。実際、私たちは頻繁に自己の表面的な部分で生きており、良い言葉や無駄な批判に満足しており、言うだけで行動しないか、または自分の内面的や霊的な空虚を隠すために役に立たないお喋りをします。以前ファリサイ派の特徴であったこの偽善的な行動が、今、私たちのものになったのです。言葉だけで行動しないことについて考えると、私たちの中で、いったい誰が自分の理想と実際の行動、思考と行動の完全な一致を主張できるでしょうか。支配しようとすること、権威を持とうとすること、自分の意見を押し付けようとすること、目立とうとすることを望むこと、これらのすべては私たちが陥らないように避けるべき罠です。

 私たちは皆兄弟であり、唯一の父である神がいます。ご自身をすべての者の僕としてくださったイエスを通して私たちを救った神は私たちをご自分の最愛の子どもとしてくださったのです。神だけが偉大です。ですから、特に私たち司祭は、自分たちの態度や教え方に疑問を持たなければなりません。私たち司祭は、自分の立場を利用して、尊敬や配慮、さらには物質的な利益を得るのは簡単ですから。

 同様に、兄弟姉妹の皆さん、神の言葉にどのような魅力を感じていますか。教会における神の臨在について十分に注意して、考えていますか。それを忘れて、新聞やパンフレットを読んだり、隣の人と大声でお喋りすることを好んではいないでしょうか。 教会のドアをくぐるとき、個人的にどれくらい相応しい礼拝の時間を神に捧げるでしょうか。更に、自分自身を福音化し、他の人を福音化しようとする代わりに、自分の信仰の生き方を、束の間の無益な欲望に合わせてしまってはいないでしょうか。

 偽善の罪は私たち全員を脅かしています。ですから、父なる神の眼差しの下でもっと強く生きることができるようにイエスに切に願い求めましょう。聖霊が私たちに、神を知り、神を愛し、崇拝し、霊と真実において神を礼拝することを(参照:ヨハネ 4,23)教えてくださいますように。 アーメン。

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        年間第32主日   A  20231112日   グイノ・ジェラール神父

            知恵の書 6,12-16       2テサロニケ4,13-18      マタイ 25,1-15

 今日の朗読から提供される招待状は次のようなものです。警戒心を持つこと、知恵を望むこと、無知にとどまらないこと。なぜなら、無頓着さ、信仰深さの不足、霊的な怠惰は、肝心なものを奪い、私たちに害を及ぼすだけですから。

 用心深くなり、知恵を望み、無知のままにならないことは、すべて今日の朗読からの招きです。 不注意、信仰を深めることの欠如、精神的な怠惰は、私たちに必要なものを奪うことによって害を及ぼします。神をより良く知るために信仰を育てることや神を愛する方法を学ぶために、神の言葉を繰り返し読み、心に巡らすことや神の神秘的なものを理解するように聖霊に願うことは、知恵のある者と信仰の内に目覚めているキリストの弟子として私たちを変えていきます。

 賢明であることは、愛を持続することです。賢明であることは、神のリズムで生きることです。つまり、日常生活に祈り、聖書の読解、そして内面的な沈黙の場所を整えることを意味します。神は私たちに修道士のように生きることを求めているのではなく、ただ神を頻繁に思い起こすことを望んでいます。そうすることで、私たちの人生は輝きを放ちます。たとえ話の乙女たちのランプのように、私たちの人生は人々に喜びと光、慰めと知恵をもたらすために役立たなければなりません。

 この知恵は私たちへの神の無償の愛です。「探す人には知恵は自分を示す。求める人に知恵は自分の方から姿を見せる」と第一朗読が私たちに教えました。賢明であることは、私たちが神から愛されていること知ることです。賢明であることは、また、私たちを聖化し、永遠に生かすために私たちと一致したい神の望みを承諾し、認識することです。賢明であることは、「空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられることを」(参照:1テサロ4,17)強く望むことです。

 キリストの教会は知恵の家です。キリストの教会は、すでに楽しく祝っている全人類の一部です。教会は信仰の夜の中で、この祝いの雰囲気が長く続くことを知っています。したがって、全人類を照らすために、教会は殉教者と聖人たちの証しを通して、また、教会博士たちの教えを通じて、できる限りたくさんの知恵の油を受け取って、予備に蓄えています。

 私たちの日常生活の中で神の居場所がないなら、私たちは油のないランプのようです。その結果、私たちの人生はすぐに物質的な存在になり、労働、自己満足、楽しみの追求に制約される生き方になるでしょう。永遠の命は今から始まっています。その今を生きられないのなら、いったいどのようにして私たちが死んでからこの永遠の命に与かり、もっと広がるでしょうか。他の誰かが私たちの代わりに神を愛することはできません。ですから、私たちは注意深くならなければなりません。私たちの信仰の炎を養いながら、神の存在を望むように警戒しましょう。知恵の油が私たちの試練の夜に耐えるために確かな助けになります。神に向かって精一杯生きるなら、神の愛の力は決して私たちに不足することはないでしょう。そして、この今の生活の中でさえ、永遠の喜びが私たちの心に広がり、満たすでしょう。

 そういう訳で、聖パウロの言葉を借りて、「私たちがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主の御心にかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至るように」(参照:コロサイ1,9-10 聖書口語訳)神に願っています。アーメン。

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       年間第33主日  A 年 20231119日  グイノ・ジェラール神父

         箴言31, 10-31        1テサロニケ5, 1-6       マタイ25, 14-30

 今日、教会は私たちに箴言をとおして日常生活の正しい模範として有能な妻の例を紹介しています。この箴言の本に出てくる女性は善良で、寛大で、忍耐強く、勤勉な人です。たとえ話の中の主人は、自分の富をたちに託すことで、彼らを信頼しています。良い召使いたちは、主人のお金を増やすことで、主人に敬意と献身を示しています。良い召使いたちは主人のためにすることが自分たちの利益になることを知っています。同様に悪い僕は、人生で成功するには危険を冒さなければならないこと、そして与えられなかったものはすべて失われることを私たちに思い起させます。

 私たち人間の生活は絶え間ない不均衡の状態にあるので、神への揺るぎない信頼だけが、私たちに愛のためにすべてを賭ける大胆さと勇気を与えてくれます。聖パウロが求めているように、私たち一人ひとりが自分のいる場所で実を結ばなければなりません。怠惰と無関心は私たちに不幸と深刻な結果をもたらすだけであり、そして遅かれ早かれ私たちを「暗闇やと歯ぎしり」の世界に陥らせます。

 イエスの時代では、1タラントンは30年分の給料に相当する大きな金塊に相当します。ですから、2タラントンや5タラントンは莫大な財産に相当し、ほぼ一生涯を象徴しています。たとえ話のタラントンは、神から無償で受け取った私たちの人生と、神の名において私たちが築くべき世界を表しています。イエスのたとえ話は現在の私たちにしばしば混乱を招きます。たとえば、私たちが今聞いた話は、僕たちの間の分配が不平等であることを示し、また、最大の成果を達成するよう私たちを誘っていると感じます。

  私たちが実を結ぶことができるように、神は人生全体を私たちの手に託した、とイエスは教えようとします。しかし、一人ひとり誰もが自分の可能性に応じてそれを受け取ります。このたとえ話は、神がご自分の王国の発展と、世界を救うご自身の働きに私たちを結び付けてくださっていることを教えています。私たち一人ひとりが責任を分担しているので、神は私たちが積極的で想像力豊かになることを望んでおられます。イエスはまた、キリスト教的な生活は具体的な確約とリスクの上に成り立っていることを私たちに思い起させます。

 「私は恐れていました」と 怠惰な僕は申しわけなさそうに言いました。この僕は主人の富を無駄にしませんでしたし、それを失いませんでしたが、彼は何もしませんでした。この怠け者の僕は、この莫大な金額を与えたことによって主人が自分に寄せた信頼に気がつくことができませんでした。彼は恐怖に圧倒されて、主人の信頼と寛大さに感謝する代わりに、主人の厳しく咎める態度を恐れました。

 このように、神に対する私たちの見方と考え方は、私たち自身のキリストとしての態度と行いに影響を与えています。揺るぎない信頼は勇気を出して行動させますが、恐れは不信感と無行動に繋がります。私たちは自分から働きかける能動的な態度でしょうか、それとも他に動かされる受動的な態度でしょうか、眠っているでしょうか、それとも目覚めて、見張っているのでしょうか?私たちは神に信頼を示しているでしょうか​​、それとも神を恐れているでしょうか。

 箴言の書に出てくる女性のように、私たちが日常生活の出来事と仕事に豊かな愛とゆるぎない希望を注ぐ良い僕たちになれるよう努力しましょう。アーメン。

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        王であるキリスト A 年  20231126日  グイノ・ジェラール神父

         エゼキエル34,11-1215-17  1コリント15,20-2628  マタイ25,31-46

 バスラに住んでいた8世紀のイスラム教徒の神秘家、ラビア・アル・アダウィヤは、片手に水の入ったバケツ、もう一方の手にたいまつを持って街の通りを歩いていました。 彼女は、「地獄の火を消し、楽園に火を放ち、その両方が消えて、人々が報酬を求めず、恐れることなく神を仰ぎ見ることができるようにしたい」と言いました。ラビアは、いかなる恐怖や期待、地獄への恐怖や天国への願望も超えて、ただ神自分のためだけに神を愛しました。

 彼女はこのように祈っていました、「主よ、もし私が地獄への恐怖からあなたに仕えているのなら、私をその火で焼かれるようになさってください。もし楽園に入るためにという希望によりあなたに仕えているのなら、それを禁じてください。しかし、もし私が仕えているのがあなただけのためなら、私があなたの御顔を仰ぎ見ることを否定しないでください」と。報われることを望んで、あるいは罰せられることを恐れて神に仕え、愛することは、利己的な方法で神に頼ることになります。真実の愛は無条件であり、恐怖や希望を超えています。

 しかし、今日のたとえ話は、私たちを恐怖あるいは報いの状況に陥らせます。 私たちには、イエスが「さあ、わたしの父に祝福された人たちよ、来なさい」と言うのを聞くか、「呪われた者たちよ、私から離れなさい」と言うのを聞くのか選択があります。この二者択一に直面したキリスト者は、恐怖と震えの中で生きるしかありません。ラビアのような無私無欲の愛は、間違いなく私たちには不可能に思えます。

 私たちが聖人であろうが罪人であろうが、有罪であろうが無罪であろうが、神の愛は、イエスの受難と死によって与えられました。人類はもはや羊と山羊に分けられるものではないことを私たちに教えてくれます。今は 唯一の羊飼いと一致している唯一の群れしかありません。私たちのために十字架につけられたイエスは、私たちの人徳や長所、過ちや欠点を超えて、私たちは皆無条件に愛されていることを明らかにしました。イエスは今、神の無限の愛によって結ばれた宇宙に私たち全員を生かし、住まわせてくださいます。

 私たちは皆罪人であることを認めなければなりません。毎日曜日にミサが始まる時、公にそれを告白します。この認識は、私たちを圧倒したり閉じ込めたりするどころか、次の事実を宣言し、証明しています。つまり、たとえ私たち皆が罪を犯していても、信仰によって私たちが救い主であり、正しい人の中の正しい人であるイエスと親密に一致していることを罪の告白が保証します。また、キリスト者は赦しの秘跡に与かる度に同じ喜ばしい保証を受けます。

 ですから、私たちは愛が展開できる場所、隣人に目を向けることができる場所、恐れや見返りを求めることなく、誰であろうとその人を愛することができる場所で生きるように努めましょう。地獄を避けて、天国に入ろうとせずに、自由に無私無欲の愛を示すように努めましょう。この無条件の愛によって人間らしく生きることが、イエスに出会うことであり、「はっきり言っておく、あなたが一人にしたのはわたしにしたこと」(参照: 25, 40)つまり、{あなたが一人の人を愛したのはわたしを愛したことです」という言葉をイエスの口から聞くことになります。 アーメン。


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